名もなき声に耳を澄ます

Interview

わたしたちが大事にしたいこと その2
2つのものの見方

By Yu Koseki | 2023.04.09

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わたしたちが大事にしたいこと その2
2つのものの見方

このマガジンでは、私たち運営チームからカンファ・ツリー・ヴィレッジにまつわる「問い・ひと・ものごと」などを発信していきます。

なにか明確な答えを提示するのではなく、答えに向かう手がかりを一緒に探る場所です。

このシリーズは、プロジェクトメンバーのこせきゆうから、リーダーのしょうけいさんへのインタビュー。
今回のテーマは、2つのものの見方について。わかる、わからない、ってどういうことだろう。

「ふんべつ(分別)」するってどういうこと?

ゆう:
しょうけいさん、今回は、仏教のものの見方や捉え方について聞きたいです。
「ふんべつち(分別知)」「むふんべつち(無分別智)」ってどういうもの?

しょうけい:
「無分別智」は言葉で語ることが難しいので、「分別知」から説明するほうが理解しやすいかもしれません。

「分別知」は、「わかる」こと、「分ける」ことです。「わかる」というのは、「分ける」「分別する」ことですね。私たちは、これはこういうもの、あの人はああいう人、と言葉でラベリングをして、わかった気になりすっきりしたい。それをずっと日常でしています。

スナップショットのようなものですね。ある瞬間を写真に収めて、その一面だけを見てこれはこういうものだと判断する。だからインスタグラムも、切り取った瞬間が「映える」ように撮りますよね。人間は切り取られた一面を見て、”それそのもの” だと思いがちなのです。

ゆう:
一般的に「分別がない」って、よくない意味で使いますよね?
でも、しょうけいさんの話だと、分別しすぎることはよくないということ?

しょうけい:
「わかる」ことは良いことだとされていますし、実際、分別がないと社会生活を送りにくいです。社会は「分別」でまわっているので、それを身に着けることが大人のふるまいとして大切なこととされています。

ただ、同時にそれは諸刃の剣であり、苦しみを生む原因にもなるのです。たとえば、誰かに「あなたは〇〇な人だよね」と、ある一面を切り取ってそれがすべてであるかのように言われると、「私そういうところだけじゃないのに…」と傷ついたり、逆に傷つけてしまうことがありますよね。

「分別」は、個々人の生活ではものの見方の押し付け合いとしてあらわれ、社会単位になると正義の振りかざしになり、それがエスカレートすると戦争に繋がることもあります。

本来は、そこから離れよう、と説いているはずの仏教系の教団でさえ、「私たちの教えが正しい」「私たちの解釈が正しい」と対立してしまうことがあり、それほど人間の分別知は根が深いものです。社会を成り立たせるために分別は便利ですが、それに苦しみもすれば、それが紛争や争いの原因にもなってしまうのです。 

ゆう:
「ふんべつ(分別)」が対立を生むということ?
「むふんべつち(無分別智)」は対立をやわらげるの?

しょうけい:
釈迦牟尼ブッダがいたら、「無分別智」をどのように語るのかぜひ聞いてみたいですね。けれど、そうなれない私なりに、「無分別智」をどのように日々に生かすかと言うことをお話してみると、大事なのは、「また分別しているな」ということに気付いていくことだと思います。こういう話をしている直後にも、すぐに「分別」がわいてくるわけですが、「あ、また分別してしまっているな」と気付いていくこと。

「分別」することから離れられない。私もそう、あなたもそう、みんなそうだ、ということをなるべく自覚して、おたがいを悲しみ合いながら、正しさを主張したくなるときに踏みとどまる。何かを振りかざしたくなるときに、いや待てよ、また罠にはまっていないか、分別の穴にはまっていないか、わかったような気になっているけれど、私は本当にそんなにわかっているのだろうか、と自分に問いかけることが大事なのだと思います。

こうして「分別」の限界を知ると、「分別」を解体する力がブレーキとなり、それがときにキラリとはたらいてくれる。そういう形で私たちは「無分別」にアクセスしていくのかなと感じています。体得する、などとは到底言えませんけれど。

目に見えないものを思うことが、わからなさへの扉を開いてくれる

ゆう:
わかるようなわからないような……

しょうけい:
もっと「無分別知」をやわらかく言うと、「わからなさに開かれる」こと、「分けられない・わからないことを知る」ということです。

人間の、わかる、とか、わかりたい、への執着はものすごいものです。けれど、本当はわかりっこないよね、という感覚に開かれていくことはできます。

そのわからなさの究極が「死」です。私たちはどこから来て、何者で、どこへ行くのか。わかりようがありません。そういうわからなさへの扉を、日本は日常生活の実践できる形にして文化にしてきました。

たとえばお寺はイメージしやすいと思いますが、お墓やお葬式やお仏壇や法事など、「死」を思うきっかけに溢れています。わからなさへ開かれるゲートが根付いているのです。

ゆう:
日本のお寺はお葬式や法事ばかりで、仏教の教えとは遠いイメージがあるけれど……
生きている私たちがどう生きていくか、というところから離れているような気がする。

しょうけい:
私自身も、仏教そのものとは紐づかないものとして見ていたところもありました。

でも、実際には「死」や「亡くなった方」を思う機会に溢れるお寺こそ、「仏教」「仏道」「ブッダ・ダルマ」のど真ん中だったのではないのか、と。わからなさに開かれていることが、無分別の風を感じることならば、難しい教義を介さずに、もっとも身近な目に見えない存在として亡くなった方につながるために、儀式や儀礼に落とし込み、身体化してきたのがお寺やお坊さんなのではないか、と思うようになりました。

目に見えない存在を思って生きることは、「私」を超えた「私たち」性への開かれではないでしょうか。それはお坊さんだけの知恵ではなく、日本の風土によって育まれ大事にされてきたみんなの知恵なのではないかなと思います。

松本 紹圭

まつもと しょうけい

僧侶/Ancestorist。東京大学哲学科卒、インド商科大学院(ISB)MBA。世界経済フォーラム(ダボス会議)メンバー。株式会社Interbeing代表取締役。武蔵野大学客員教授。未来の住職塾の立ち上げ、現在まで講師を務める。著書『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』、翻訳書『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』等。

小関 優

こせき ゆう

テンプルモーニングをきっかけに仏教に興味を持つ。武蔵野大学通信教育部仏教学専攻編入・卒業。
早稲田大学第一文学部卒。文学が生きる糧。趣味は映画観賞、日本舞踊(藤間流名取)。興味のある分野は哲学、宗教、芸術、言葉まわり。生きることや苦や美など、答えのないもやもやに考えるヒントをくれるものに惹かれる。