わたしたちが大事にしたいこと その1
感じることからはじめよう
このマガジンでは、私たち運営チームからカンファ・ツリー・ヴィレッジにまつわる「問い・ひと・ものごと」などを発信していきます。
なにか明確な答えを提示するのではなく、答えに向かう手がかりを一緒に探る場所です。
このシリーズは、プロジェクトメンバーこせきゆうから、リーダーのしょうけいさんへのインタビュー。
初回のテーマは、仏教ってどうやって知るの?学ぶもの?あたりから。
はじめまして、よろしくお願いします
ゆう:
まずは、私たちプロジェクトメンバーの自己紹介からはじめましょう。
私は、小関優(こせきゆう)といいます。お寺の家系でも仕事でもない一般人です。
仏教に関心を持ったのは、しょうけいさんがお寺でひらかれていた「テンプルモーニング」に参加して、
早起きしてお寺をお掃除したり、本堂でお経を読んだりしたことがきっかけでした。
そこにはありがたい法話も難しい教えもなく、檀家になりませんか?なんていう勧誘もなかった。
あったのは、お寺で四季の移り変わりを感じる時間と、本堂にいるときにほっと安心できる時間。
掃除をすることでお寺が自分の居場所になっていく実感でした。
それは、忙しい日々の合間に、自分の時間を取り戻す、とてもたいせつな時間でした。
そうしてだんだん、仏教ってどういうものなんだろうと思い始め、
仕事をしながら武蔵野大学に編入して通信で仏教を学びました。
今回はそのご縁もあり、このプロジェクトに関わることになりました。よろしくお願いいたします。
では、しょうけいさん、どうぞ。
しょうけい:
はじめまして、松本紹圭(まつもとしょうけい)です。
私はお寺の出身ではありませんが、縁あって2003年に僧侶になって以来、自分のお寺を持たず身軽にいろいろな活動をしてきました。
ゆうさんも参加してくれたテンプルモーニングをお寺で開いたり、全国のお坊さんとのおしゃべりをするポッドキャストを配信したり、みなさんがお坊さんから連想する法事やお葬式ではない活動をたくさんしています。
世襲でお坊さんになったわけではないからこそ、仏教やお寺をもっといろいろな方に届くようにしていきたいと思います。
このマガジンでも、仏教に馴染みのない方にもおもしろさが伝わるよう、わかりやすく、決めつけず、みなさんのもやもやも大事にしながらお話しします。よろしくお願いします。
考える仏教から、感じる仏教へ
ゆう:
私が「テンプルモーニング」に行くようになったのは、しょうけいさんのある記事を読んだことがきっかけでした。
仏教は宗教の枠を超えていく、というようなことが書かれいて、仏教ってそうなの?おもしろそう、と思った。
しょうけい:
「宗教」は、「教」という字が入っているので、「教え」や「教義」が大切で、間違えてはいけない、はみ出してはいけないという印象があるかもしれません。その「教義」を唯一の正しさとして掲げるから宗教紛争が起こる、というイメージもあるでしょう。
でも、そういうものはもううんざりだよね、という感覚で宗教を捉える人は少なくないと思います。実際、私もお坊さんになってみると、仏教にも窮屈な部分はあり苦労することもありますが、そういうところだけを見て、これはいらないや、と言ってしまうには仏教はあまりにももったいない。
本来の仏教はそこから離れよう、と言っているのです。
私自身、哲学科出身で、どちらかというと頭で考えることが好きですが、お坊さんになって素朴に思ったのは、「本堂っていい場所だよね、お経の音っていいよね。お香の香りっていいよね」ということでした。
特に日本の仏教は、お坊さんだけのものではなく、みんなのものとしてあります。教義の追究ではなく、毎朝ご先祖様に挨拶をしたり、慣れ親しんだお経を読んだりする形で実践されてきました。
僧侶歴20年になり、実はそういうところに大事なものがあるのではないか、考える仏教よりも、感じる仏教、体験する仏教が大事なのではないか、と思うようになりました。
ゆう:
でも、そもそも感じる仏教って、仏教なの?って。
感覚的には仏教とつながりそうだけど、どうつながるのかわからずもやもやします。
しょうけい:
「仏教」と言うと、いかにも「教え」という感じがしますよね。仏教の歴史の中にもいろいろな言葉があって、そもそも「仏教」という呼び方をされるようになったのはわりと近代です。それまでは「仏法」「仏道」「ブッダ・ダルマ」などと言われてきました。
それらは必ずしも「教え」ではなく、形のない、捉えられないものなのです。親鸞の言葉で言えば、色もなく、形もなく、言葉にも表すことのできない何か、ですね。
今回、武蔵野大学は、混迷する時代だからこそ、建学の精神である「ブッダ・ダルマ」を世界へ発信しようとしています。
とてもたいせつなテーマでもあり、挑戦でもあります。それを、試行錯誤しながら形にしようとしているのが、このカンファ・ツリー・ヴィレッジです。
ゆう:
言葉にできないものをどんなふうに伝えられるんだろう?
しょうけい:
色もなく形もなく表現も超えているものをどう伝えるのか。とても難しい問いですよね。
たとえば、「指月(しげつ)の喩え」というものがあります。指と月です。月が「ブッダ・ダルマ」、指がそれを指し示そうとする「言葉」。
「ブッダ・ダルマ」を、「真理」「真如」などいろいろな言葉で表そうとしてきましたが、どうしたって言葉では正確に表せません。ですが、表そうと試みる言葉すらなかったら、近づくための方向すらわかりません。けれど、指(=近づくための言葉)は決して月(=「ブッダ・ダルマ」)ではない・・・。つまり、私たちは「ブッダ・ダルマ」の輪郭をなぞることしかできないのです。
ですので、その指がどこに向かうのか、そのベクトルが大事になります。
具体的には、一切の執着から離れること。ああしたい、こうしたいというものがわいてこない状態にすること。これがひとつ大事な方向性になります。
そのためには、「私」の範囲をどう広げていくか、ということがあると思います。「私」と言うとき、「私」と「あなた」を分け隔てています。けれど、「私」への執着を離れていくと、「私」の境界が揺らいでくる。「私」から「私たち」へとだんだん開かれていきます。
お寺の掃除が「私」の境界線を溶かす
ゆう:
お寺の掃除でも「境界線を溶かす」とよく話していますね。
しょうけい:
掃除もやってみると奥が深いです。地球上で落ち葉を右から左に移しているだけなのではないか、むしろ自然の摂理に反しているのではないか、などいろいろ考えます。
でも、掃除をしているうちにだんだんと境界が広がっていきます。お寺を掃除してみると、掃除前後で、「私」の場所が広がっているのがわかると思います。
隅々まで手で触って拭くと、その場所に意識がいき、空間が「私たち」になりますし、お墓を掃除すれば、ご先祖さまのことを思ったり、私たちもいずれ先祖になることを思い出したりして、時間軸が「私たち」へと広がっていきます。
ゆう:
「私たち」への広がりも、仏教と関係がある?
しょうけい:
釈迦牟尼ブッダの一生涯をみると、最初の35年(悟りを開くまで)は、「私」の道を追求していたと思います。「私」性がすっかり洗い流されてしまったところに、一切衆生との「私たち」性を体現するあり方が出てきて、それから80歳まではみんなを導く旅に出るわけです。
また、日本で広まった大乗仏教は、どちらかというと「私たち」性が強いです。
原始仏教に近い上座部仏教は、厳しい修行を積んだ人だけが悟りを開けるという個人救済の考え方ですが、大乗仏教はその改革運動として出てきた面があり、みんなで救われていこうと考えます。
ですので、「ブッダ・ダルマ」は誰もが触れられます。その「ブッダ・ダルマ」を再発見していこう、とヴィレッジから世界へ呼びかけていきます。どう受け止め、どう実践するか、その「あらわれ」は、国や個人によって異なりますが、それぞれにユニークにあらわれうるのは、誰にも広く開かれているものだからです。
松本 紹圭
まつもと しょうけい
僧侶/Ancestorist。東京大学哲学科卒、インド商科大学院(ISB)MBA。世界経済フォーラム(ダボス会議)メンバー。株式会社Interbeing代表取締役。武蔵野大学客員教授。未来の住職塾の立ち上げ、現在まで講師を務める。著書『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』、翻訳書『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』等。
小関 優
こせき ゆう
テンプルモーニングをきっかけに仏教に興味を持つ。武蔵野大学通信教育部仏教学専攻編入・卒業。
早稲田大学第一文学部卒。文学が生きる糧。趣味は映画観賞、日本舞踊(藤間流名取)。興味のある分野は哲学、宗教、芸術、言葉まわり。生きることや苦や美など、答えのないもやもやに考えるヒントをくれるものに惹かれる。