
ユヴァル・ノア・ハラリ、松本紹圭 対話 2025年3月
松本
カンファ・ツリー・ヴィレッジは、学校法人武蔵野大学創立100周年の記念プロジェクトです。本学の建学の精神は、仏教、ブッダ・ダルマ(仏法)です。今、世界は戦争、気候危機、AIの台頭といった多くの問題を抱えています。こうした問題に直面し、ブッダ・ダルマはどのように関わり得るのか、私たちはプロジェクトを通して探っています。
私たちはこのプロジェクトを「私たちはいかにして、未来世代にとってのよき祖先(グッド・アンセスター)になれるか」という問いと共にスタートしました。海外の方には、日本の仏教は、マインドフルネス瞑想に関連するものとして映っているかもしれません。しかし、実際、日本の人々にとって伝統的な仏教が担っているのは、ほぼ全て、祖先の供養にまつわることです。家には、暮らしの場に設けられたいのりの場所(お仏壇)で、ご先祖さまの写真を前に「南無阿弥陀仏」と唱えるような日々の習慣があります。そうして今は亡き祖先との関わりに心を向ける日々であると同時に、私たちもいずれ自らが祖先になっていきます。そうですよね。
今回もこの問いから始めたいと思います。
「いかにして未来世代にとってよき祖先になれるか」
という問いを聞かれて、まずどんなことが思い浮かびますか。ここで私が言う「祖先」とは、血縁関係に留まりません。恩師、歴史上の人物、名もなき誰かや見えない存在も含まれています。
ハラリ
祖先、そうですね。2つほどあるでしょうか。
世界の多くの地域の人々が、特に祖先崇拝はしなくとも、それぞれの方法で祖先を敬っています。そして往々にして人は、祖先によって自分たちと他者とを区別しようとします。祖先が私たちの間に壁を築くのです。「私の祖先は、あなたの祖先とは違う」と。ですから、私たちは分けられてしまって「私の祖先の方があなたの祖先よりも優れている」と言うのです。単に違うというだけではないのです。「私の祖先の方が優れていたのだから、私もあなたより優れているんですよ。」数百年、さらには数千年前の祖先という名の下に、今日も戦争をする人々がいる、世界中でこのようなことが起きているのです。
問題を解く一つの鍵は、その誤ちに私たちがいつも気づいていくことです。祖先崇拝は、時代を遡るほど、より尊敬に値するとされています。一代前の祖先がいて、二代前の祖先がいて。そして百代前の祖先を前にして「これこそ最も尊ぶべき祖先である」となるのです。実のところ、充分に過去へ遡れば、私たちの祖先はみな同じです。一代、二代前の過去であれば「私とあなたは違う」でしょう。でも、百代、千代と遡れば、私たちは同じ祖先に辿り着きます。ですから、祖先崇拝は、人々を分け、戦争や緊張関係を生むのではなく、むしろ「私たちは同じである」ということを理解できるようになることが望ましいのです。十分に長く過去に遡れば、私たちは同じなのです。繰り返しますが、過去に遡るほど価値があるという論理なのです。では、私たちが本当に過去へ遡っていったなら、祖先は同じなのです。これが過去についてです。
そして未来について、「未来のためにいかにしてよき祖先になれるか」という問いについてです。今日の世界の多くの問題は、もちろん、おっしゃるように気候変動、国際的な緊張関係、AI(の進化に伴うリスク)といった問題を抱えています。しかしながら、すべての根底にあるのは人間同士の不信です。気候変動について言えば、人類は解決できるにもかかわらず、お互いに対する充分な信頼がありません。どの国も「あなたが何かやるべきだ」と押し付け合います。「私たちには資金がない」「私たちにはこれもない、あれもない」「私たちはやる必要がない。あなたがなんとかすべきだ」と。戦争は、言うまでもなく不信によるものです。AIについても同様です。
私は、AI革命の最前線の方々とお話しする機会があります。米国や欧州を訪ねますし、来週には中国も訪問します。大企業や各国政府のリーダーたちと話をすると、みな一様に「AIの危険、リスクはわかっている。本当はスピードを緩めて、より安全に進めていきたい。」と話します。しかし同時に「我々がスローダウンしても、他国や他の競合企業がそうせず突き進む。最も容赦のない人々がAIの競争に勝ち、世界を支配することになる。彼らは信用できない。だから、みんなで足並みを揃えようという契約を交わすわけにはいかない。私たちが契約に署名してスローダウンしても、彼らはそうはしない」と言うのです。AIの問題においても、最大の問題はAIそのものではありません。人々の間の不信なのです。
ですから、私たちがよき祖先になりたいのであれば、そこにある最大の問いは「他者とどのように信頼を築くか」ということです。私には答えがありません。とても難しいことです。不信には、それが生じる深刻な理由があります。信用に値しない相手との間にどうやって信頼を築くのか、これこそが、大きな問いです。
松本
そうですね。言い換えれば、他者、見知らぬ人と、私たちはいかに共存できるかを見出す必要があるということですね。プロジェクトのこれまでの道のりをお話ししたいと思います。まず「いかにしてよき祖先になれるか」という問いと共に始まり、思想家などのゲストを日本に招き、第一回は倫理、第二回は平和と安全保障、第三回は人権という主に3つのトピックスについて対話を行ないました。この一連の対話の流れを分析してみると、もっとインスピレーションを与えられる問いを作ろうと思ったのです。最初の「いかにしてよき祖先になれるか」に続く問いは、
「いかにして「人間」(being Human)を超えられるか」
になるのではないかということでした。
ここで、「人間(Human)」という単語を私がどのように用いているか説明させてください。Humanを形容詞として(名詞ではなく)使っています。ここ(対談が行なわれた西本願寺)の宗派、浄土真宗を開いた親鸞聖人は、僧侶として人間であることを乗り越えたい(悟り、仏になりたい)と願ったのですが、次第に「私は決して人間であることを越えることができない」と気がついたのです。そして人間として仏教を求めていくという極めて独自の方法を見出しました。
では、形容詞としての「人間(Human)」とはどういう意味でしょうか。私の解釈は、人間には、自分のものの見方を他者に投影する傾向があります。だから親切で寛大に、そして利他的になれる。しかし時には、圧政を行なったり、集団として大きな過ちを犯したりもするのです。人間とは、そういうものです。『Humankind 希望の歴史』の著者、オランダの思想家ルトガー・ブレグマン氏と対話をしたことがありまして
ハラリ
とてもいい本ですね。
松本
ご存じなのですね。今お話したことは、彼の議論にまさに共鳴するものです。人間には素晴らしいところがあり、同時に、問題を起こすところもある。宗祖である親鸞は、人間であることが、とても大きな問題であることに気がついたのです。仏教においては、仏になることがゴールです。人間であることを乗り越える、ということですよね。人間から仏になれ。仏とは、この定義においては人間ではないのです。ご存じのように、ブッダは自分のものの見方を他者に投影することはありません。このように、私たちは人間であるということを乗り越えないといけないのです。つまり、自分の見方を他者に投影しない、そして人間の見方をAI、ロボットに対しても投影しないということです。しかし、私たちは人間なのです。人間であることを乗り越えるのは本当に難しいことです。このテーマ、人間であること、そして「いかにして人間であることを乗り越えられるか」という問いといったことについてどのように思われますか。
ハラリ
そうですね。まず、私たちは他人に投影するだけでなく、自分自身に投影していると思います。心というのは常に、自分自身の創造物を、私たち自身の自己理解に対して投影しているのです。そのため、私たちは自分自身が生きていることを、ほとんど正確に理解することができません。常にこの投影するスクリーンが存在していて、私たちは幻想の世界に生きているのです。それは時に他人の幻想が投影されたものであり、時に自分自身の幻想が投影されたものです。
松本
そして集団的な幻想が宗教にもなり得る。
ハラリ
そうです。
宗教、イデオロギー、経済学――すべてが集団的幻想です。
そして私はこう思います。つまり、ブッダとは何か、あるいは「悟り」とは何かを定義する一つの方法は、「幻想の中で生きることをやめること」である、ということです。
ありのままの現実を目撃することができるようになる――これはもちろん非常に非常に難しいことですが。
さて、私はすべての精神的伝統の中には、一つの緊張関係が存在していると思います。
それは「個人の救済への道」と「世界の集団的問題」との間にある緊張です。
これは私個人の視点、あるいは傾向ですが、私は個人的には精神的な道を実践しています。そして、私のまわりにも実践している人がたくさんいます。
私はそういう人たちを多く知っているのですが、彼らの多くが、こういった幻想を持っているのです――「私たちの修行によって、世界の集団的な問題――戦争や経済的不平等、気候変動といったもの――も解決できる」と。
しかし、歴史を振り返っても、私はそれがうまくいっているという証拠を見たことがありません。
歴史上のブッダである釈迦牟尼(しゃかむに)は現れて教えを説きましたが、世界の問題を解決したわけではありませんでした。
古代インドにおいても、戦争や疫病、緊張や不平等は続いていました。
そしてこのことこそが、彼の教えの一部だったのだと思います――「世界のあらゆる現象は無常である」ということ。
それは、仏教の教えすらも、精神的伝統すらも、宗教的制度ですらも、すべて無常であるということです。
だから私はたくさん瞑想をしますが、「世界の問題の解決策は、世界中の人々が瞑想を始めることだ」とは思っていません。
私はそれがどうやって実現されるのか分かりません。
仮にそれが実現したとしても、人々は瞑想そのものをねじ曲げ始めて、今度はその中で政治的な争いが始まるでしょう。
それは、世界という現象に本質的に含まれているものだからです。
松本
私たちが人間である限りは。
ハラリ
私たちが人間である限りは、です。
そして、「人間を乗り越える」という幻想、これはあらゆる宗教や、あらゆる世俗的なイデオロギーにさえも見られますが、私は非常に危険な幻想だと思います。20世紀の共産主義も「人間の奥深くにある傾向を克服し、新しい人間を創造することができる」と幻想を抱いていました。これはもちろん、古代の宗教的伝統の中にも見られます。非常に危険なことです。特に問題なのは、機能していないときでも、その伝統に属する人々は、機能していないこと認めようとしないことです。繰り返しになりますが、彼らは幻想を投影するのです。もちろん、宗教においてもそうですし、20世紀の共産主義を見ても、うまく機能しなかったのです。しかしながら、機能していないと言うことは、非常に危険なことでした。もしも「うまくいっていない」と言おうものなら、大変な目に遭うことになったでしょう。そして今、AIに関しても、人々は同じように幻想を抱いていることがわかります。「私たちは超人的な何かを創造することができる。それが人類の問題を解決してくれるだろう。私たちは他の人間を信頼できないが、AIなら信頼できる。」これもまた、非常に危険なことです。私はこう思います。私たちは人間とは不完全であり、永続しないものであるということを受入れ、私たちが作るもの全て、例えば社会システム、政治システムといったものにも、私たちは間違いを起こすという認識をシステムに組み込んでおかなくてはいけないのです。よいシステムを作るには、完璧ではないということ、それを認めるということが鍵となるのです。
松本
ええ、まさにそれこそ、宗祖の哲学で、私がこの宗派にいる理由です。彼の結論とは、私たちは決して人間であることを乗り越えることはできないけれども、それでもなお、人間であることとその傾向を認めることで、生き生きとより良く生きる道があるということだったのです。そこで、私の次の問いは、完璧でないことや傾向をより認識するために
「私たちはいかに謙虚さを養うことができるのか」
になるかもしれません。一つの考え方としては、単に人間であるという前に、動物であることに気づくことかもしれません。私たちは、決して動物であることから逃れることはできません。人間は自分が動物であるということを忘れがちです。ここに小さな贈り物を持ってきました。掃除について、瞑想としての掃除についての私の本です。『A Buddhist Monk’s Guide to Clean House and Mind(日本語版タイトル:こころを磨くSOJIの習慣)』です。
ハラリ
ありがとうございます。
松本
私が掃除を大切に思うのは、自分たちの住んでいるところに関わっていくからです。なぜなら、私たちは動物であるという事実を思い出させてくれるからです。私は「世界」や「地球」という言葉よりも、「生息地(Habitat)」という言葉を好みます。いまここにいるのですから、ここは私たちの生息地になりますね。生息地という言葉は、世界、宇宙、地球といった概念よりも、幻想であるというニュアンスが少なく、現実的であるからです。この瞬間にこの部屋にいる皆さんの生息地はここですね。このように、概念ではないのです。少なくとも、身体を持つ動物として、私たちは生息地では、概念ではなく、何か手触りのあることを始めることができます。掃除という実践は、この生息地と深く関わっていくための、非常に象徴的な実践なのです。
ハラリ
世界における私たちのジレンマの一部は、人類ならびに個人の人間性、あるいは、生息地というレベルにおいても、常にそこには複数の人がいるということです。何が清潔なのか、掃除をするとはどういうことかということについても、様々な考え方があるのです。たとえば、夫と私の生息地は同じですが、何が清潔かという感覚はまったく異なります。たとえば、私は散らかっている状態の方が好きです。なぜなら、とてもきれいな表面を見ると、緊張してしまうからです。何かしたら、この清潔さを壊してしまうと感じてしまうからです。でも、テーブルの上が散らかっていたら、とてもリラックスできます。なぜなら、私が何をしても状態は変わらないからです。私のオフィスに来て、机を見てもらえれば、いつも色々と物が積み上がっています。
松本
(テーブルを見て)エントロピーが低いですね。
ハラリ
とてもエントロピーが低いです。ですから、異なる清潔さの概念、あるいは異なる清潔の幻想を持った人々や存在たちは、どうやって生息地を共有するのでしょうか、という問いとなるのです。違う動物のことを考えたとしてもそうです。たとえば、家にアリがいるとして、私は気にしません。でも彼は気にします。アリが家にいるのを嫌がります。彼にこう言います。「アリは良い存在だよ。何かを残しておくと、アリが来て、運んでいってくれる。だから、自分で何一つする必要はないんだから。」でも彼はこう言います。「いや、でもアリそのものが、汚いんだよ。」
松本
アリの生息地だからですよね。
ハラリ
そうです。そしてこの話は、生態系全体にまでつながっていきます。つまり、人間にとって清潔とされることは、他のすべての生命体を取り除くことかもしれないのです。このことに私は答えを持ち合わせていませんが、本当に大きな質問です。
松本
少なくとも、私たちはこの瞬間、人間の優位性という視点を乗り越える必要があるという点で同意していますよね。これまでの経済システムは、ほぼ完全に人間のために設計されてきました。つまり、私たちはこれまで人間の間の常識だけの中で生きてきたということです。でも、今こそ、人間を超えた常識、より多くの存在を招き入れる常識へとシフトするべき時だと思います。いや、招き入れるという表現自体がとても人間中心的で、多種存在的(multi-species)になっていないですね。
ハラリ
そうですね。いま起こっていることの一部は、これまで全ての他の種を見下していることからだと思います。自分たちは彼らよりもずっと知的だと思っていたからです。でも今や、AIという、自分よりも知的な存在が現れました。突然、知性とはそれほど重要なのか、なぜ知性にそこまで価値を置いているのかと言い始めたのです。同時に、だったら知性の低い他の動物たちのことも、きちんと扱うべきかもしれないとも考え始めています。
もし知性が唯一の尺度であり、唯一、重要なものなのであれば、私たち人間は、もはやそれほど重要ではないのです。
松本
その通りです。だから私は、欧米の思想家たちからよくこんなリクエストをもらうのだと思います。AIとアニミズムの関係について、対話をしましょうと。よく依頼を受けるのです。おっしゃられたように、AI以前、人間は常に、他の種、動物や植物と比べて、自分たちをユニークで特別な存在にしたいと思ってきました。そのユニークさの土台となっていたのが、ロゴス、知性だったのです。でも、皮肉なことに、私たちはそのロゴスによって、ロゴスの世界を支配するかのような生成AIを創り出しました。そして今、私たちは自分たちの土台を失いかけているのです。
ハラリ
まさにその通りです。
松本
ですから、新しい土台を探す中で、私たちはついに、新しく、同時に古い土台を再発見しつつあることに気がついたのです。わかった、そもそも私たちは動物で、AIとは違うんだと。つまり、これこそが、動物や植物との比較というよりも、AIとの比較においての、新しくて古いユニークさの土台です。世界が今、日本にも存在するアニミズムにより関心を持っているのは、まさにこの理由ではないかと思います。このようなシフトを、あなたも感じられていますか。
ハラリ
はい、まったくその通りです。繰り返しになりますが、特に西洋において、その他の地域においても、私たちは何世紀にもわたって、ロゴス、知性によって自分自身を定義してきました。でも今、突然、その定義が私たちを意味のない存在にしてしまっているのです。なぜなら、ますます多くの分野において、知性だけが本当に重要ならば、人間はもはや重要ではない、ということになるからです。なぜなら私たちよりも優れた知性が登場しているのですから。もう間もなく、今でさえも、AIは殆どの人間よりも優れた文章を作成することができるのです。5年後、10年後には、AIはこういった本(たとえば『NEXUS(ネクサス)』や『人類の物語』のような)を、私やあなたよりも、人間の著者より、多分、上手に書けるようになるでしょう。たとえばキリスト教やユダヤ教のような宗教においては、ロゴス(言葉・理性)やテキストを神聖視してきました。ユダヤ教を例にしましょう。ユダヤ教における究極的な権威は、テキスト、言葉にあります。人間ではないのです。ではなぜ人間が重要だったのでしょうか。それは、歴史の中で、人間だけがテキストを読み、解釈できたからです。テキストは沈黙しています。言葉は語りません。ですから、常にラビ(律法学者)が、テキストを読み、解釈するために必要な存在でした。しかしながら、今やそれは変わってしまいました。今や、テキストが語ることができるようになったのです。AIは、ユダヤ教のすべての聖典を読み、過去2千年間に書かれたすべての注釈を読むことができ、すべての言葉を記憶し、新たな解釈を生み出すこともできます。つまり、言葉は今や語ることができるのです。では、言葉が語ることができるのなら、人間は何のために必要なのでしょうか。ですから、ユダヤ教やキリスト教のように言葉やロゴスに大きな重要性を置いてきた宗教は、非常に大きな危機に直面することになると思います。彼らは、自らの理解のために、新たな土台を見つけなければならないでしょう。ええ、それは世界にとって大きな変化になるでしょう。これから何が起こるのか、私たちは見守っていくことになるでしょう。
松本
本当にありがとうございました。議論の非常に重要な部分に触れて下さって、心から感謝します。この(思索の)旅に参加して下さってありがとうございました。
ハラリ
ありがとうございました。この本に、献辞を書いてもらえますか?
松本
もちろんです。
(以上)