Buddha Dharma
ブッダ・ダルマ(仏法)を巡り宣べられた、はじまりのことばたち。
Statement
ブッダ・ダルマ宣言
「語りえぬものについては沈黙しなければならない」
20世紀の哲学者、ウィトゲンシュタインの言葉だ。
仏教は、まさにこの「語りえぬもの」すなわち仏法(ブッダ・ダルマ)を巡って、数えきれないほどの先人たちが積み上げてきた智の体系と言ってもいいだろう。
仏教において、智は二種類に分けられる。分別知は、主観と客観とが相対する対象的思惟だ。一見切れ味が良さそうなそれは、暗闇の中で振り回せば振り回すほど、人は傷つき、迷いが深まる。一方の無分別智は、日常の認識作用がはたらきだす以前、主客未分の、ありのままそのままの世界にアクセスして浮かび上がる智慧だ。
仏教でいう分別知、つまり、存在を対象化して固定的・論理的に切り分けて、言葉によってラベリングするような仕方では、ブッダ・ダルマは決して「分からない」ものとされる。禅の伝統では、それに触れるには言葉がかえって邪魔になるといって、言葉の作用を破壊し、無効化を試みる。
にもかかわらず、仏教は、沈黙しなかった。言葉を絶したブッダ・ダルマの輪郭を浮かび上がらせようと、言葉を尽くして語ることに、先人たちは信じられないほどの努力を傾けてきた。
このカンファ・ツリー・ヴィレッジは、ブッダ・ダルマを巡って集う旅人たちが焚き火を囲むように語らう中で、言葉による分別を超えた声の交歓が生まれ、その響きが過去から未来へと広がっていくことが願われる場所だ。
今こそブッダ・ダルマの根本に立ち返り、現代におけるその意義と可能性を問い直し、すべての現象が縁起する世界の中で、皆が共存できる持続可能な社会と、未来世代の平和と安穏に貢献したい。
ブッダ・ダルマに照らせば、この世界に、固定した実体、すがた・かたちなどは何もない。人間の思考による執われや、善し悪しや喜び悲しみなどが、まぎれ込む余地もない。それでもなお、「語りえぬもの」を巡って思考し、言葉の限り語ろうと挑戦するアンセスターのために、その言葉を作品集に収め、これからの人たちへの贈り物としたい。
ダルマ、すなわちこの世界のありのままの実相に呼び覚まされ、一切の執われから自由になり、分別の迷いの夢から目覚めた人は、ブッダ、すなわち仏と呼ばれる。実のところ、仏教においては、誰もがブッダになれるのだ。その現れ方は一人ひとりの身においてユニークであると同時に、そのはたらきはどこまでも広く社会に開かれている。
「語りえぬもの」に魅入られ、探究し、格闘の末、良き友となったアンセスターたちの言葉から、あなたは何を受け取るだろうか。ブッダ・ダルマを巡る言葉は、あなたの創造性の源泉になることもあれば、迷えるときの依りどころになることもあるだろう。
カンファ・ツリー・ヴィレッジが、ブッダ・ダルマを中心にして、今ここに立ち上がることを、武蔵野大学は宣言する。
[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を
我々は[諸々のものが]空であること(空性)と言う(中略)
[何かを]縁とせずに生起するものは 何ら存在しない
したがって 空でないものは 何ら存在しない (『根本中頌』 桂紹隆訳)
2022年12月8日
学校法人武蔵野大学
武蔵野大学 学長 西本照真
「ブッダ・ダルマ」を巡る作品を、4/29(土・祝)「はじまりの集い」@京都・西本願寺で冊子にてお披露目の上、電子版でもお届けします。多くの方に親しんでいただけると嬉しいです。
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